現在の位置

二宮町の歴史

更新日:2015年11月3日

「にのみや」の誕生 地形の変動

二宮町域に人が住み始めたのは、一色で発掘された石器から少なくとも1万数千年前と考えられていますが、昔と今では地形に大きな違いがあります。

今から5~6千年前の海岸線は現在より内陸側にあり、中里・元町・梅沢などの平らな低地から貝類や魚類の化石が数多く出土しています。また、縄文時代の遺物が発見されるのは、一色や山西などの丘陵や台地です。

二宮町の周辺は地殻変動の激しいところで、土地は隆起を繰り返し、やがて3~4世紀になると、現在とほとんど同じ地形が出来上がり、集落の範囲も広がりました。

いにしえの人々 出土する遺物

古墳時代と呼ばれる3~7世紀、他の地域では多くの古墳が造られますが、二宮町にはありません。

しかし、6~7世紀には丘陵の傾斜面を利用した横穴墓が盛んに造営されました。中里の諏訪脇横穴墓群からは金銅製太刀が出土していて、大和朝廷の工房と関係があったと考えられています。

奈良・平安時代の遺跡からは、素焼きの土器である土師器(はじき)が多く出土します。

中世の「にのみや」 鎌倉幕府との関わり

川勾神社は927年完成の『延喜式』に記載されているところから、創建はさらにさかのぼることができると思われます。

川勾神社が「二宮」として文献に現れるのは源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年で、二宮河勾大明神(川勾神社)で北条政子の安産祈願が行われたと『吾妻鏡』に書かれています。

鎌倉時代には二宮太郎朝忠が御家人として相模国渋見郷(霜見・塩海とも呼ばれ、現在では「塩海橋」にその地名の名残があります)の地頭を務めていたことも記録に残っています。朝忠の妻は仇討で知られる曽我兄弟の姉にあたり、知足寺で兄弟の菩提を弔ったとのことです。

近世の「にのみや」「間の宿」のにぎわいと村のくらし

1600年代初頭、江戸幕府は街道の整備を進め、東海道の川勾神社入り口付近には「江戸から十八里(約70キロ)」の一里塚が設けられました。

まわりは梅沢の立場(たてば)と呼ばれ、旅籠屋や商店でにぎわい、大磯宿と小田原宿の中間にある「間(あい)の宿」として旅人の休息の場となり、栄えました。

江戸時代の関東の村々における支配領主の特徴は、一村が複数の領主によって支配される相給(あいきゅう)で、その領主も度々替えられました。

当地の村も、川匂村は一給村でしたが、中里村・二宮村・山西村・一色村はそのほとんどの時期が二給ないし四給の村で、領主は幕府・藩・旗本の中でいろいろと組み合わされ、村の運営は名主・組頭・百姓代を中心に行われました。

江戸時代は地震や台風、日照りなどの災害が頻発し、人々は飢饉や疫病に苦しめられました。

特に大きな被害をもたらしたのは1707年(宝永4年)の富士山の噴火です。中里村では砂利石が40センチほど降り積もり、田畑に多大な被害が出たと、古文書に記されています。

明治・大正期の「にのみや」近代化の波

明治時代になり、数度の行政区分の変遷を経て、1889年(明治22年)の町村制施行により、5か村は合併して吾妻村となりました。

1902年(明治35年)に東海道線二宮駅が開設されると、1906年(明治39年)二宮秦野間の馬車鉄道も開通し、二宮駅周辺は旅館や飲食店でにぎわいを見せるようになりました。また、1908年(明治41年)には神奈川県農事試験場二宮園芸部(県立園芸試験場の前身)が設置されました。

馬車鉄道が1913年(大正2年)に蒸気機関の湘南軽便鉄道(1918年から湘南軌道株式会社と名称変更)に替わると、秦野からはタバコ、木綿、落花生などが大量に運ばれ、二宮駅は中継地点として一層活気を帯びました。

二宮と秦野を駆け抜けた軽便鉄道

二宮と秦野を駆け抜けた軽便鉄道

「二宮」の名は広く知られるようになり、別荘が次々と建てられ、保養地としても認められるようになりました。

昭和期の「にのみや」吾妻村から二宮町へ

1921年(大正8年)に秦野自動車、1927年(昭和2年)に小田原急行電鉄が営業を開始すると、人と物資の流れが変わり、湘南軌道の業績は悪化していきました。

1935年(昭和10年)、東海道線と軽便鉄道により発展を遂げた吾妻村は駅名をとって二宮町となりました。しかしそれと時を同じくして湘南軌道は全線営業休止となり、1937年(昭和12年)に姿を消しました。

町制施行当時、役場を背景にした記念写真

町制施行当時、役場を背景にした記念写真

その後町は日中戦争、太平洋戦争と時代の大きな波に飲み込まれ、1945年(昭和20年)8月5日の空襲では二宮駅で数名の方が亡くなっています。

その時父親を亡くした高木敏子氏は自身の戦争体験を『ガラスのうさぎ』に綴り、ベストセラーになりました。

戦後の「にのみや」変わる街並み

戦後は東京、横浜などに近く、豊かな自然環境に恵まれた首都圏のベッドタウンとして、1965年(昭和40年)に百合が丘団地が完成したのをはじめ、次々と住宅地が開発されました。

小田原厚木道路や西湘バイパスのインターチェンジも設置され、交通網の整備が進むとともに、住環境の向上が図られました。

1981年(昭和56年)には二宮駅南口に平和を願って「ガラスのうさぎ像」が建てられ、翌年には二宮町議会で「平和都市宣言」が決議されています。

現在の「にのみや」「住み良いまち湘南にのみや」

2015年(平成27年)、二宮町は町制施行80周年を迎えます。

1935年の町制施行時に8,248人であった人口は、2014年(平成26年)7月現在、28,841人となりました。

現在は文化・スポーツ施設も整備され、温暖な気候と豊かな自然に囲まれた「住み良いまち湘南にのみや」として発展を続けています。

参考文献

『二宮町史通史編』1994年(平成6年)二宮町発行

さらに詳しい町の歴史や文化をお知りになりたい方は、「バーチャル郷土館」をご覧ください。

バーチャル郷土館

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