二宮のにぎわい

更新日:2015年11月3日

 天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原城に攻め入り、北条早雲以来5代続いた北条氏は滅びました。その後、秀吉は北条氏の旧領である関東240万石(伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総)に徳川家康を任じました。この時代は短い期間にたびたび領主が代わる激動の時代でもあります。

 家康が関が原の戦いで勝利を収めてからは、江戸を中心とした交通政策に力を入れ、5街道(東海道・中山道・奥州道・甲州道・日光道)の整備に着手しました。東海道は二宮を貫いていて、正式な53宿ではありませんが、大磯と小田原の間の宿(あいのしゅく、一時のお休み処)としての発展を遂げました。特に現在の山西と川匂は梅沢と呼ばれており、「小名越地(こなこいち)に立場(たてば)あり、梅沢の立場と呼ぶ、茶店軒を連ね、諸侯の憩息所等もありて、頗(すこぶる)繁栄なり」(『新編相模国風土記稿』巻之四十 村里部 淘綾郡巻之二)とされ、その賑やかな様子が伝わってきます。文中の「立場」とは休憩施設のことで、神奈川県内には18ヶ所ありました。眺望の利く場所や、橋のない大河川に隣接する村に設置されることが多かったようです。茶屋には、江戸から18番目の一里塚がありました。この辺りには茶店や商家、職人、駕籠(かご)屋が立ち並び、宿場に近い活気を呈していました。

 さて、東西を結ぶ東海道に加え、南北には後の県道69号線の秦野道(曽屋往還)が通り、当時は大山参りにも利用されていました。もと秦野道沿いの河原橋のたもとにあった地蔵像(現在は元町老人憩いの家の南に移動)の台座の左側面には「大山道」、正面には「右小田原/左大磯」の文字が見えます。地蔵像は安永8(1779)年に建立されており、江戸時代に大山へ参詣する人々の道しるべになっていたのでしょう。一色には「金目道」という小字名がありますが、これも金目観音参詣に通過した場所であることを示しています。

 また家康は一定した年貢を確保するために検地を行いました。検地は天正19年(1591年)を初めとしますが、この詳細な記録は残されていないようです。もっとも古い検地帳としては、文禄3年(1594年)7月のものがあって、山西・中里村の2ヵ所にその写しが残されています。

二宮の塩田

 人間の暮らしに欠かせないものの一つに塩があります。二宮は海に面した村のため、古くから海水による塩の精製が盛んでした。二宮町内の地名に塩海(しぼみ)があります。『新編武蔵風土記稿』によると「古この海浜にて鹽を精製す、依ってこの名あり」と記されています。

 近世期の塩作りには揚浜法を用いたとされています。その方法は、まず砂浜を平らにしてくみ上げた海水を何度か撒きます。天日により水分が蒸発するので、砂の塩分が濃くなります。その砂を集め、海水とともに鍋に注ぎ、煮詰めて塩をとるものです。

 塩作りは川匂・山西・二宮村の3か村で明治初年あたりまで行われていました。江戸時代には年貢を納める場合にも塩で納める(塩年貢)の制度もありました。

「梅沢御本陣」跡

「梅沢」という地名は寛永17年(1640年)に分かれるまで、現在の山西・川匂・道場(現小田原市内)を含んだ地域を指していました。「梅沢御本陣」はそのうちの山西茶屋にあった大名・公家・幕府役人などの公式休憩所です。参勤交代時の往復に使われるのが一般的ですが、17世紀中頃には旅人に酒肴を供しており、江戸時代後期の寺社参り流行にともない、庶民が泊まるようになりました。

 二宮は正式には幕府が定めた53宿ではありませんので、宿泊は禁止です。しかし大磯と小田原の間は16キロメートル程度あり、酒匂川をはさみます。酒匂川はたびたび増水したため、通行不能になり足止めを食うことがありました。そのため、届出があれば場合により宿泊可能だったようです。宿帳の「御小休帳」には宝永5(1708)年からの記録が残されています。

 松屋本陣に残されている記録によると、この地域の名物としてあんこう・粟餅がよく登場します。これらは宿泊した大名やその家族へも献上されていました。このことから二宮はあんこうのとれる海であったことがわかります。粟餅の粟は、近くで栽培が行われていたのでしょう。当時の暮らしぶりを知ることもできます。

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