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二宮のこれから

更新日:2015年11月3日

二宮のこれから (現代)

 国道1号線が整備され、工場や商店ができると町はいっそう賑やかになりました。そして昭和10年(1935年)、吾妻村が二宮町と改められ、新しい町が誕生しました。初代町長は杉崎源蔵で、人口は8,248人でした。

 戦争による物資統制と配給は、人々の暮らしを苦しくしました。太平洋戦争では多くの尊い命が失われ、二宮町内の戦没者は285名にのぼりました。

 太平洋戦争も終わり、二宮町も大きく生まれ変わりました。下は、戦後10数年過ぎたころ、二宮小学校で開かれた町民運動会の様子を撮影したものです。広い校庭に、翌年小学校に上がる園児が輪になって踊っています。校舎は昭和48年改築され、今の鉄筋になりました。奥にみえるイチョウは今も残っています。

 小田原厚木道路・東海道新幹線・西湘バイパスなどの交通網も整いました。二宮町は東京・横浜などの大都市圏に近く、豊かな自然環境に恵まれ、気候温暖で良質な住宅地として発展します。丘陵地には昭和40年(1965年)に百合が丘団地が出来たのを始め、中里団地・富士見が丘団地等たくさんの住宅地が完成しました。二宮町は都心へ向かう通勤者のベットタウンとして開発が進んでいきました。

 昭和53年(1978年)、二宮町役場新庁舎の竣工式にあたり、「二宮町町民憲章」が発表されました。公徳心・愛町心・生活環境を豊かにすることを目的とした内容であり、広く町民から草案を募集して作られたものです。また映画化もされベストセラーになった戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子作、金の星社、1977年)が二宮町を舞台とすることもあり「平和都市宣言」が議会で決議されました。南口駅前広場の「ガラスのうさぎ像」は人々の募金によって昭和56年(1981年)に建てられ、平和を願うシンボルとなっています。

 近年では生涯学習センター・ラディアンや、温水プールなどのスポーツ関連施設も整備され、住みよい町「湘南にのみや」として住民に愛され、現在に至っています。

知足寺の鐘

 太平洋戦争では、物資が不足して大変な時代でした。中でも金属は困窮を極め、神社及び寺院など宗教関係の団体は、梵鐘を除き1キログラム以上の金属をすべて供出しなくてはならなりませんでした。

 知足寺では境内にある梵鐘はそのまま保存できましたが、昭和17年(1942年)には半鐘を供出することになりました。高さ73センチ・直径39センチ・重量60キログラムで、鐘の後ろに元禄9年(1696年)の銘があります。この半鐘を送り出すときには出征兵士と同じようにタスキをつけて見送ったといいます。

 しかし平塚の消防署で使っていた半鐘の鳴りが悪かったという理由で、取り替えられ使われることになりました。戦後は平塚市で保存されていましたが、昭和48年に二宮に戻ってきました。

中里祭囃子保存会

 中里の祭囃子(まつりばやし)は約200年前の文化・文政の時代に、金目村(現平塚市金目)から伝わったとされています。戦後しばらく中断していましたが、地域の文化をこのまま消滅させてしまうのはしのびない、と地元の有志が集まり、中里祭囃子保存会を発足しました。

 その後、二宮町内の数地区に普及させ、現在は後継者育成のため、小中学生や高校生にも指導しています。お囃子には江戸の町人文化の華やかさが表現され、より古い形が継承されていることから、昭和50年(1975年)に町の重要無形文化財に指定されました。

 祭囃子の合同練習は例大祭の約2ヶ月前から始められます。使われる楽器は、大太鼓・小太鼓・笛・鉦(かね)で、学校で習う音楽のような楽譜はありません。例えば小太鼓の練習では、テケ・テン・テン等のリズムを耳で聞き、熟練者のバチさばきを目で見て覚えます。

 中里の祭囃子は、7月22日・23日の八坂神社・明星神社の夏祭りで奉納されるほか、毎年10月に行われる二宮町民俗芸能のつどいでも見学できます。