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二宮の発展

更新日:2015年11月3日

二宮の発展 (近代)

 江戸幕府が崩壊し、明治維新の波とともに新政府が成立しました。明治4年(1871年)11月発効の行政区分では、伊豆及び高座・大住・淘綾・愛甲・津久井・足柄の各郡は小田原に県庁を置く「足柄県」に含まれています。二宮は淘綾郡に属し、現在の神奈川県に編入されたのは明治9年(1876年)の4月です。明治に入ると文明開化・富国強兵・殖産興業政策とともに、二宮にも近代化の波がおとずれました。町内には小学校・郵便局・病院・銀行などができました。明治22年(1889年)には江戸時代5つに分かれていた村(一色村・中里村・二宮村・山西村・川匂村)をまとめ、吾妻村が誕生しました。その当時の人口は4,090人、初代町長には宮田喜太郎が選ばれました。

 明治20年(1887年)に東海道本線が国府津駅まで敷設されると、伊達時(だてとき)を中心に二宮駅設置の必要性が叫ばれました。明治35年(1902年)になり、やっと念願の二宮駅が誕生しました。また二宮と秦野の交通が発達するに伴い、明治38年(1905年)には馬車鉄道が開通し、1913(大正2)年には馬車から蒸気機関車に代わり、軽便鉄道ができました。

 明治41年(1908年)には神奈川県農事試験場二宮園芸部が発足し、果樹の品種改良や栽培法の改善、病害虫の防ぎ方など生態に関わる総合的な研究が進められました。

関東大震災おこる

大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分頃、関東地方に大規模な地震がおこりました。震源地は相模湾の東経139.5度・北緯35.1度の海底で、マグニチュード7.9を記録する大きなものでした。

 大磯警察署が大正13年8月に発行した『震災記録』によると吾妻村では死者25人、負傷者26人。家屋は全焼6戸、全壊406戸、半壊376戸で、総戸数1343戸のうち約59%が被害を受けました。道路はいたるところで地割れし、各所で山崩れがありました。交通の麻痺もひどく、鉄道線路が浮き上がったり、軽便鉄道の機関車が葛川に転落したりしました。

 当時、地震にあった人たちの話では、突然ドカンとものすごい音がし、そのあとぐらぐらと揺れだし、立っていられない状況だったそうです。その頃の家は土壁で出来ており、家が崩れると土煙がもうもうと舞い上がり、砂埃が立ち込めて辺りがかすんだほどでした。 また学校の屋根は瓦葺だったため、瓦が雨のように降ってきて大変危険でした。

 地震が終わってからも一週間くらいは大きな余震が続き、家が潰れるかもしれないので屋外で過ごしたといいます。井戸の内壁が崩れて水がにごったため、川まで水を汲みに行くこともあり、大変な思いをしたそうです。世の中が移り変わっても忘れてはならない災害の記憶です。

海の恵み

 川勾神社には大正時代のキハダマグロ漁の様子を描いた、見事な絵馬があります。絵馬は梅沢の漁師が大漁の御礼に奉納したものです。舟4艘(そう)と網にかかったたくさんの魚、右上には伊豆大島も描かれています。当時、伊豆大島は火山が活発だったので、日によっては赤い炎や噴煙(ふんえん)が見えました。フンドシをしめた若者たちの様子からは、夏場の漁であることがうかがえます。

 よく見ると前列2艘の舟上には足場が組まれ、その上に着物姿の人たち(船頭(せんどう))が乗っています。この人たちはナブラ(魚群)を見つけ、合図する係です。キハダマグロは群れで移動するため、漁ではナブラを見つけることが重要でした。ナブラがある海の上空には必ずカモメがいるので、よい目印になりました。

 続いてナブラを囲むように網(アグリ網)をかけ、徐々に網の範囲を狭(せば)めていきます。そしてあらかじめ舟に積んでおいた石を網へ向かって投げ、魚を驚かせて追い込みます。

 漁は昭和30年代頃まで行われていました。中段の写真はそのころ盛んだったアジの水揚げを撮影したものです。「梅沢漁場」と書かれた桶はアジがいっぱいに入っていますが、大漁はめずらしいものではなかったので、舟の後方では魚を見に来ることもなく、子どもが遊んだままです。獲れた魚は、右端に写っている氷を敷いた桶にいれ、傷まないようにして運んでいました。海岸から坂の上に停めたトラックまで天秤棒で桶を担ぐと、魚を数尾もらえたという話もあります。

 一番下の写真は、当時とても広かった海岸で、エビ網漁につかう網を干しているところです。エビは、夕方に網を沈めておくと、翌日にはたくさんかかっていました。

 現在、二宮では漁師の数が減ってしまい、在りし日の漁を見ることはできなくなりました。絵馬と写真は漁で賑(にぎ)わっていた頃の二宮をうかがい知ることのできる貴重な資料です。