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地質

更新日:2015年11月3日

 二宮町の町土の歴史、すなわち二宮町の地質を理解していただくための予備知識として、まず地質時代のお話しをします。地質時代とは、地質上の出来事をもとに、地球の、46億年前に誕生してから今日までの歴史をいくつかに区分したものです。

 今からおよそ5億年前、生物が急に繁栄しはじめました。そのころは無脊椎動物とシダ植物が生物の主役でした。それらが恐竜と裸子植物に取って代わられ、次にほ乳類と被子植物の時代となりました。このような生物相の変化に伴って、古生代、中生代、新生代というように呼んでいます。このように述べると、古生代には無脊椎動物とシダ植物しか生存していなかったのかということになりますが、あくまでも主役がそうであったというだけのことで、古生代の最初のころには早くも脊椎動物である魚類が出現しましたし、古生代の中期には両生類とは虫類が現れました。シダ類だけだった植物の世界でも、古生代の後期になると裸子植物の出現が確認されています。中生代と新生代についても同じです。

 さて、約5億年前、生物が急に繁栄するようになった時代の前はどうであったかというと(実はこの時代が大変長く、地球の歴史の約9割近くを占めているのですが)、多くの生物がすで生息していて、生物繁栄期を迎える準備を進行させていた時代ということができます。
 以上述べたことを表にまとめておきましたのでご覧になってください。

 

地質時代一覧
年代(前まで) 主な生物・事件
新生代 第四紀 完新世 1万年 人類の発展
新生代 第四紀 更新世 200万年 人類の出現
新生代 第三紀 鮮新世 530万年 鳥類の発展
新生代 第三紀 中新世 2350万年 哺乳類の発展
新生代 第三紀 漸新世 3400万年 貝類の発展
新生代 第三紀 始新世 5300万年 被子植物類の発展
新生代 第三紀 曉新世 6500万年 哺乳類の出現
中生代 白亜紀 - 1億3500万年 アンモナイト・恐竜の絶滅
中生代 ジュラ紀 - 2億500万年 鳥類の出現
中生代 三畳紀 - 2億4500万年 アンモナイト・恐竜の発展
古生代 二畳紀 - 2億9500万年 三葉虫類の滅亡
古生代 石炭紀 - 3億6000万年 シダ植物類の発展
古生代 デボン紀 - 4億1000万年 両せい類の出現
古生代 シルル紀 - 4億3500万年 魚類の発展
古生代 オルドビス紀 - 5億年 サンゴ類の発展
古生代 カンブリア紀 - 5億4000万年 三葉虫・腕足類出現
先カンブリア時代 - - - 藻類・無脊椎動物の出現

 

二宮町に分布する地質は形成時代の古いものから順に、

  1. 鷹取山層
  2. 二宮層
  3. 関東ローム層
  4. 段丘礫層
  5. 沖積層

の、5つの地質系統に区分されます。地質系統というのは、ほぼ同じ時代にできた一続きの地層という意味です。以下、順に各地層を説明します。

二宮町の地層断面図

鷹取山層

 大磯町鷹取山を模式地として、大磯丘陵南部一帯に分布する地層です。もちろん二宮町にも広く分布し、いわば二宮町の土台石の役目を果たしている地層です。二宮町役場から吾妻山の山頂にかけて、ところどころで見られる硬い地層がそれです。鷹取山層はここだけでなく、原田から秋葉山に登る坂道、川匂密厳院周辺にも見られますし、海岸のところどころにもこの地層が分布しています。茶褐色をしていて、何の変哲もない地層といってしまえばそれまでですが、二宮町の地層の中では一番古い地層で、それだけに、まだ解き明かされていないいろいろな資料が隠されています。
 鷹取山層のできた年代は、化石が見つかっていないので、正確にはわかっていませんが、ほかの地域の地層と比べたりして、新生代第三紀の最後の時代と考えられています。長い地質時代から見るとごくごく最近の地層ですが、年数でいうと今から約500万年前の地層ということになります。おおざっぱにいって、縄文時代の始まりが約1万年前ですから、500万年前という古さが何となく実感できるというものです。
それ以前の二宮町のある地域がどうなっていたかは全く不明です。何しろ、地質という歴史の証拠が全くないのですから。
 鷹取山層は、堆積岩という、海底で堆積した地層でできているので、二宮町周辺はこのころ海の底にあったわけです。この地層は実はもっと南の海の底でできて、その後移動してここにまでやってきたのだという考えもありますが、少し専門的になりますので、ここでは触れないことにしておきましょう。
 その後、この地層が隆起し、大きな山地に成長した時代もありました。隆起すると山は侵食され、低くなっていきます。侵食によって生じた岩や石ころは近くの海の底に運ばれ、そこでまた新しい地層に生まれ変わります。

二宮層

 鷹取山層が隆起し、山地に成長し、その山地は侵食によって低くなるという経過をたどって、今から100万年から50万年前になると、大磯丘陵中部一帯が沈降するようになって来ました。そこに、湘南平の北側を回って海が入り込んできたのです。
 海の底には、地層が堆積します。この海に堆積した地層が二宮層です。
 二宮層を調べると、この時の海の様子がわかります。海は最大で100メートルくらいの深さであったこと、相模湾とほぼ同じ水温であったこと、入り江というよりかなり潮通しのよい海であったこと、大磯丘陵の西のほうからこの海に石や砂が運び込まれていたことなどがわかります。
 二宮層は、二宮町北部を中心に広く分布しています。吾妻山の北麓から元町北半部、中里・一色一帯に見られ、百合が丘団地、富士見が丘団地、松根団地などの造成時に掘り起こされた青灰色の、まだ、堅く固まっていない地層がこれに当たります。
 二宮町で見られる二宮層の主体は、青灰色の泥層ですが、妙見周辺では砂、中村川から西の地域では礫が多くなっています。また火山の噴出によって生じた火山灰、軽石、スコリアがたくさん含まれているので、二宮層が堆積しつつあった時代には、箱根の古い火山が活発に噴火していたことが推定できます。
 この地層は、二宮町に広く分布しているので「二宮層」という名がつけられています。特に、この地層からはたくさんの貝化石が産出するので、大変有名で、地質学を勉強する人たちにとっては、一度は勉強しなければならない重要な地層です。

関東ローム層

 赤土としてよく知られる関東ローム層は、特に北部の丘陵地帯に厚く堆積しています。
関東ローム層は、一般に地層と呼ばれる他の地層と比べると、基本的に違っているところがあります。地層は一般に海底や湖底のように、水の底に堆積したものですが、関東ローム層は陸の上で、空から降ってきた物質が堆積してできた地層です。このような地層を風成層と呼びます。風成層には、黄土が堆積してできた中国大陸の地層が有名ですが、火山が多い日本では、火山灰が堆積してできた風成層が各地で見られます。西の縁に火山が連なっている関東平野の台地や丘陵上には、これらの火山からの火山灰が厚く堆積しています。これが関東ローム層です。
 箱根・富士山など、火山灰の給源火山に近い大磯丘陵には多量の火山灰が飛来して厚い関東ローム層が堆積しました。二宮町の丘陵では侵食から取り残された火山灰層が約20メートルの厚さで残っており、丘陵の表面にふっくらとした丸みをあたえています。
 二宮町の関東ローム層は下部の2/3程度のところが比較的明るい褐色で、上部1/3が暗い褐色を呈しています。しかし、これは基本的な話で、侵食を受けている部分が多く、当てはまらないところが多いかと思いますが、明るい褐色の部分には軽石などを多く含み、暗褐色の部分にはスコリアなど黒い火山の岩片が入っています。前者は主として箱根火山起源のもの、後者は富士火山起源のものです。
 給源火山の噴火が激しいと軽石やスコリアのように粒の粗い物質がたくさん飛来し、逆に火山噴火が小規模だと細かな火山灰しか降ってきません。全く活動が休止すると、火山の周辺地域には植物が生え、草原が出現します。休止がもっと長期にわたると森林が出現します。ですから、関東ローム層を細かく観察すると、箱根あるいは富士山火山の活動の様子が細かく推定できるのです。
 関東ローム層は二宮層の堆積が終わって地上に姿を出してから間もないころに降下が始まり、今から300年前の富士山宝永火山の火山灰で終わっています。
 二宮町に堆積している関東ローム層の研究から、二宮町町土の生い立ちは箱根・富士山の活動とも深くかかわっていることがわかります。

段丘礫層

 葛川・中村川の川沿いで、現河床から数メートル高いところに砂利の層(礫層)が見られることがあります。この礫層は、以前、川が現在よりも高いところを流れていたことの証拠です。その後、川は侵食を行い、低いところを流れるようになり、古い河床にあった礫の一部が取り残されたものです。
 川岸の様子がよく保存されているところでは、川の流れに沿って階段状の地形が見られ、このような地形を段丘と呼び、段丘を作っている礫層を段丘礫層といいます。葛川や中村川の両岸にも、小規模ながら段丘が発達していました。中里や一色などではところどころでこの地形が観察されましたが、最近調べたところでは、整地されたり、宅地に変わったりして、直接見ることができなくなってしまいました。
 東名高速道路を作るときのボーリング調査によると、秦野県道と東名が交差しているところ(緩やかな凹地となっている)の、表面下5~6メートル、関東ローム層の下に厚さ2~3メートルの礫層が確認されました。これは段丘礫層で、かってここをかなり大きな川が流れていたことを示す証拠です。この付近(東名道路のあるところ)は現在は川は流れていません。しかし大きな凹地があって、かってここを川が流れていたことを推定させてくれます。
 私はこのように考えています。現在、秦野盆地から流れ出て金目川になる水無(みずなし)川は、かっては秦野県道に沿って二宮に向かって流れていました。しかし、今から数万年前、秦野盆地の南限にある渋沢断層が次第に落差を大きくし、水無川がこの断層を乗り越えられなくなって、今の金目川になったのだと。
 段丘礫層が数万年前の出来事を推定させてくれる例です。
 吾妻山の山頂、吾妻神社の左手には、山肌を削った小さな崖があります。この崖では関東ローム層とその下に礫層が観察できます。この礫層も段丘礫層です。比較的細かな礫が整然と並んでいるので、この礫は河原のものではなく、海岸に見られる礫のようです。もしそうだとすると、大昔、この山頂が海岸であったということになります。
 この礫層の上の関東ローム層は約10万年前のものであることがわかっているので、この山頂が海岸だったのは、今から10万年前ということになります。
 10万年前から今日まで海面の変動がなかったとすると(海面はいつも変動しているので、10万年間少しも変動しなかったなどとは考えられないことですが、およそのめやすとして考えると)、吾妻山は10万年間に100メートル隆起したことになります。それは、1年に平均1ミリメートルです。この平均隆起量は、世界的に見てもかなり大きな部類に入る数値です。

沖積層

 「ちゅうせきそう」と読みます。今から約1万年前、大氷河期が終わって、急速に世界が温暖化し始めてから今日までを沖積世といいますが、この間に堆積した地層を沖積層といいます。氷河時代には特に南極に大きな氷山・氷河ができ、そのため海面が今より100メートル以上も低くなっていました。氷河期が終わって気候が温暖化すると、海面は上昇し、氷河期にできた海岸ぞいの谷に向かって入り込んできました。おおざっぱに見積もって、5000年の間に海面が約100メートルも上昇したことになります。平均の海面上昇率は2cメートル/年となります。
 この時の二宮町はどうであったかというと、葛川に沿っては小田原厚木道路付近まで、中村川に沿っては小船付近にまで海が入り込んでいました。釜野もほとんど入り江のような状態だったでしょう。典型的なリアス式海岸という景観が二宮町にも展開したのです。
 新幹線、小田厚道路などの建設時のボーリング資料によると、それぞれの地下には厚い泥の層が堆積し、海にすんでいた貝の殻が入っているので、この推理はまちがっていないと思います。
 元町付近で昔井戸を掘っていたら貝殻が出てきたというような話も聞いたことがあります。このこともここが海だったことの証拠でしょう。
 二宮町の沖積層は、沖積世に海だった地域、すなわち丘陵地帯を除くほぼ全域に分布しています。葛川、中村川の谷や釜野では軟弱な泥層、東海道線から南の部分では比較的しまった砂層でできています。二宮町の多くの部分がこの沖積層の恩恵を受け、この上に立地しているといえます。

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