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あしあと

    伝説・昔話

    • [更新日:2022年11月7日]
    • ID:509

    にのみやには動物の登場する話が数多く残されています。例えば、狐が人に悪さをする話です。これらの話は、昔から持っていた日本人の動物に対する思いがわかりますし、人間と自然が一体となって暮らしていた当時の生活を知る手がかりとなります。

    ここでは、二宮町教育委員会から発行された刊行物を中心ににのみやに伝わっている動物の登場する話をいくつか紹介してみたいと思います。

    狼の話

    川勾神社の粽をつくる茅(ちがや)は沼代(ぬましろ)の将軍山(しょうごやま)から刈って来ることになっています。いつの頃からか、この山に恐ろしい狼(おおかみ)が住みついて、このあたりの人々は大へん恐れていました。川勾神社の氏子(うじこ)のうち、この茅を刈る人は道場の志沢さん一族四軒に限られていて将軍山の茅刈りはこの人達にとっては生やさしい仕事ではありませんでした。狼の出そうもない時刻に早いとこ刈って来るのも戦々きょうきょうのありさまでした。

    そのうち誰いうとなく、狼は塩が好きだから塩をなめさせて、その間に刈ったらよかろうということになりました。そこで毎年5月2日には、塩を三俵持っていってカマスを半分に切り、6ヶ所に配置して、その間に囲いをして刈り取ることにしました。

    その後、この将軍山が林重太郎さんの所有となり、お祖母さんが、茅を刈らせないといわれたので、道場の中屋(なけえ)の所有地から刈ることになりました。するとその年、林さん一家では、次々に病人が出て大へんなことになりました。そこで祈祷師(きとうし)に見てもらったところ将軍山の茅を刈らせないためであるといわれたので、川勾神社にあやまりに来て今後はいかなることがあっても永代、茅を献納することを誓いました。それ以来、志沢さん達が刈り取りの日には林さんのところへ塩を三升持っていくと、「ご苦労さま。」といって湯茶を出し接待することになりました。(川匂地区)

    二宮町教育委員会『二宮の昔ばなし』昭和56年3月、22~24ページを参照

    二宮町教育委員会『二宮の昔ばなし』
    昭和56年3月、22~24ページを参照

    チマキの写真

    国府祭のチマキ

    むじなの話

    茶屋に住んでいた庄八じいさんが、むじなに出会いました。
    「ずっと前のこんだと。俺がまだこんなにしわくちゃになんねえ昔だ。お前なんか、まだ生まれちゃいねえ。俺がまだ若え盛りの頃だ。釜野のなあ、獅子岩(ししいわ)下の畑をうなっていると、夕方暗くなりかかった時分に、砂がパラパラッと降ってきた。いや、はじめは砂とは気がつかなかったけんどよう。そうだべえ、砂が降ってくるはずはねえもんなあ。だけんど、二度三度と降ってくりゃあわからあ。えりっ首さわって手を見たら、やっぱり砂だ。こりゃ変だと思って手を休めてあおむくと、なんにも降っちゃこねえ。また鍬をふりあげてうなっていると、忘れた時分に、また降ってきた。それもよう、獅子岩下の畑へ行くと、ときどきあっただ。そうだ、日が短くなった秋のおしめぇじぶんだ。麦をまかなきゃいけねぇからと思って、一生懸命うなっていただ。そうしんと、砂が降ってきた。そうさなあ、五たびも六たびも降ってきたなあ。そいでもおらあ、平気でうなってたら、誰かが『庄八さん』って呼ぶから、あたりを見まわしたが、誰もいねえ。またうなってんと『庄八さん。庄八さん。』って呼ぶんだ。見んと誰もいねえ。そんなこと、なんべんか繰り返してんと、むじなのやつ『庄八さん。おしまいなさい。庄八さん。おしまいなさい。』と言うじゃねえか。」
    「おじいさん、本当にむじなか?」
    「ありゃ、むじなだ。狐や狸じゃねえ。」
    「おじいさん、むじなを見たのけえ。」
    「おらあ見ねえ。見ねえけんど、間違えはねえ、ありゃ、むじなのしわざにきまってる。」
    庄八さんは、確信を持って言うのでした。(山西地区)

    二宮町教育委員会『二宮の昔ばなし』昭和56年3月、80~81ページを参照

    正福寺観音堂の西側は、かつてはヤブになっていて、その前に大きな墓地がありました。夕方近く、この付近を通った人がびっくりしたことには、突然天から砂が降ってきたことでした。噂によるとヤブには年老いたムジナが住んでいて、その後ろ足で砂をかいては通行人にわるさをするのだといいます。

    二宮町教育委員会『二宮町郷土誌』昭和47年3月、300~301ページを参照

    猫の話

    ある秋の夜中。鍋屋の宗兵衛さんが小便に起きると、裏の山王山のあたりがなんだかにぎやかな気配がするので、不思議に思って、わら草履をつっかけて裏へ出てみました。生垣の向こうをひょいと背伸びしてのぞいて見ると、
    「こりゃなんだ?」
    庚申(こうしん)さんの前の芝生の上で、猫が後足で立って輪になって踊っているではありませんか。よく見ると、猫の体がいつも見ている猫よりも、ずっと大きく見えました。
    「昔っから話に聞いたことがあるが、まさか夢じゃあるめえか。」
    と思いながらなおも見ていると、中でも一番大きい猫が、赤い着物を着ていて、頭のところの毛色がどうも、家の『タマ』に似ているようです。
    そう言えば、あの赤い着物もどっかで見たことがあるような気がします。手(て)拭(ぬぐ)いの鉢巻きをしているやつもいました。あっ、あの赤い着物を着たやつは「ポックリ」を履いています。
    「あっ。あの赤い着物は、娘のおげんの七五三に着せた着物じゃないか。そうするとあの『ポックリ』もそうだ。こりゃあ、婆さんに見せれば、すぐわかるはずだ。」
    そう思った宗兵衛さんは、そっと足音を忍ばせて家へ戻(もど)り、お婆さんを起こし、もう一度生垣のところへお婆さんを連れて来て、のぞいて見ると、そこには何もなく、ただ満月の光だけがこうこうと照り輝いていました。
    宗兵衛さんは狐につままれた思いでさっき見たことをお婆さんに話して聞かせましたが、お婆さんは本当にしません。
    「やだなあ、おじいさん。寝ぼけちゃって。まあ、あしたになればわかるべえ。おじいさん、もうろくしちゃったんじゃなかんべえ。まだ夜明けにゃ間があんから、もう一寝入りしべえ。」

    お婆さんはそう言って、連れだって家へ入りました。
    あくる朝、お婆さんは念のため、箪笥(たんす)の中を調べてみました。
    「おじいさん、おげんの七五三の時の着物をしまってある箪笥を見たら、着物はあるけど、開ける時箪笥が一寸ばかり開いていたし、ポックリは見つからねえよ。この頃どうも油が減るなあと思っていたんだけど、今朝はタマがどこにも居ねえし。昨夜(ゆうべ)のあれは、本当だよ。昨夜軒下に干しといた手拭いもねえよ。」
    「そうれみろ、おれはこの眼でちゃんと見たんだ。タマのやつは、もう何十年も飼ってるんだから、本当に化けたんだべえ。」
    おじいさんはそう言うと、腰の手拭いを取ってほおかぶりをすると、手つばきをして鍬を肩に担いで、元気良く畑へ出て行きました。
    宗兵衛さんとお婆さんは、それからもいたわりあって野良仕事に精を出し、長生きをしたそうです。
    (山西地区)
    猫の話の一場面

    二宮町教育委員会『二宮の昔ばなし』昭和56年3月、64~66ページを参照

    狐の話

    越地の野谷さんは、通称「店(みせ)」と呼ばれていました。この家に安五郎と文次郎という二人の兄弟がいました。初夏のさわやかな風に、足取りも軽く腰に鎌をはさみ、肩にトンガリ棒を担ぎ、手に縄きれを持って、二人は天王山へ向かう野道を登って行きました。…今日は一番上の畑の麦刈りです。二人は鎌を手にすると、刈りっこをするように、一生懸命に麦を刈っていました。突然、弟の文次郎が手を止めて、小さな声で言いました。
    「兄(あん)ちゃん。俺なあ、もうちいっと前から気が付いてたんだけど、あすこに狐がいんど。」
    「えっ狐だあ。どこだ。どこにいんだっ。」
    文次郎が教えようと手を上げかけると、安五郎が。
    「指すじゃねえ。俺にいい考えがある。知らんふりしてろ。良いか、狐に化かされねぇうちに、俺たちゃ二人で狐を化かしちまぁべえ。良いか、俺の言うとおりにやんだぁど。」
    と言いました。
    「おう、わかった。」
    そこで二人はしめしあわせると、刈りとった麦を手に持って手を振り足をあげて、踊り始めました。

    二宮町教育委員会『二宮の昔ばなし』昭和56年3月、71~75ページを参照

    「狐の方を見んじゃねぇ。見て見ねぇ振りをしんだ。」
    二人がしばらく踊っていると、そのうち狐も一緒に踊りだしました。
    「良いか、狐のやつぁ俺っちらを化かしたつもりで、俺っちらと同じように踊ってくんから、踊りながらさっき置いたトンガリ棒のとこへ行くんだぞ。俺がトンガリ棒で、ぶん殴(なぐ)っちまうから。」
    狐は、そんな事とは露しらず、傍(そば)に寄って来て、二人と一緒に輪になって踊りはじめました。二人は少しずつ、トンガリ棒の方へ寄っていきました。よく見ると狐はまねして、麦の穂を口にくわえています。安五郎は踊りながらも、ぶん殴る呼吸をはかっていました。
    「今だ!」
    安五郎は突然ぱっとトンガリ棒をつかみざま、狐を殴りつけました。
    「やったあ。」
    二人はうまくいった、と思いましたが、狐は「コーン!」と鳴いて、一間も飛び上がり、逃げていってしまいました。
    …ひと休みした後、また刈って、夕方それを束ねて大束にして、トンガリ棒で一荷に担いで二人は山を下って家へ運びました。
    晩飯を食べてそろそろ寝ようかと思う頃、裏の戸をたたく音がしました。誰が来たのかと思って戸を開けると、誰もいません、閉めてしばらくすると、また音がします。開けてみると誰もいません。そんな事を繰り返しているうちに、去年生まれた、一番下の妹のおキワが泣き出して、泣きやまなくなりました。
    次の晩も同じこと、その次の晩もまた同じです。風のいたずらかとも思いましたが、外へ出てみれば風の息もありません。とうとうおキワは、夜泣きの癖がついてしまいました。
    そこで、釜野の清(せい)正光(しょうこう)さんで見てもらうと、狐のたたりだと言われました。いったい誰が狐にたたられるような事をしたかという話になり、実は、と二人は天王山での出来事を話しました。すると親父は怒って、
    「狐だって、死にたかあねえや。殺されそうになりゃ、怒んのが当り前だ。化かされねえだけでもめっけもんだっていうのに、化かすべえなんて、太え野郎だ。」
    二人は黙って首を下げているばかりでした。そこでおふくろが、
    「お父っさん。また清正光さんへ行って、よく頼んで封じてもらうべえよ。」
    と言うと、親父も
    「そうだ。それが良い。お前ちょっくら行ってこうよ。こんな事してりゃ、おキワに疳の虫がついちまわぁ。」
    と賛成しました。そこであくる日、おふくろが清正光さんへ行って、お願いをして封じてもらったところ、果たしてその晩からは、ぴたりと止りました。親父はしみじみと、言いました。
    「よかったなあ。清正光さんのおかげだ。ありゃ狐がしっぽで戸をたたいていただよ。良いか、わえらぁも寺子屋で何を習ったか知らねえが、弱いものはかばってやんなきゃいけねえ。生きものは可愛がってやんだと。さあ、わえらあはもう寝ろ。明日は麦を刈った後へ、薩摩(さつま)芋を植えんだ。」
    そういうと、親父の留五郎は晩しゃくのちょこを手にして、口へ運びました。
    (山西地区)

    (清正光:釜野にいた祈祷師、巫女)

    昔、狐山(茶屋の字名)の付近は、道路わきに松やその他の大木がおい茂り、昼でも寂しいところでした。キツネが娘に化けて、ここを通る旅人を困らせました。ときどき「コンコン」とキツネの鳴き声がしたといいます。

    狐の話の一場面1

    二宮町教育委員会『二宮町郷土誌』昭和47年3月、300ページを参照

    イタチの話

    貝ヶ窪の親類の家からの帰り道に、自分のすぐ後ろの草むらが、歩くたびにカサカサと音がして、何ものかがついてくる様子です。止まると向こうも止まるらしいのです。これは「送りイタチ」と呼ばれていたといいます。

    二宮町教育委員会『二宮町郷土誌』昭和47年3月、301ページを参照

    ヘビの話

    小竹との境の奥山へ畑仕事にいった人が、急に生臭い、いやなにおいがしてきたので、不思議に思っていました。すると前方のヤブが急に揺れ動き、一斗ダルくらいの太さもあろうかと思われる大きなヘビが向かってきました。その人は、鍬も何もおっぽって逃げてきたといいます。

    二宮町教育郷土誌』昭和47年3月、300~301ページを参照

    およしさんと善波稲荷

    峯吉さんは、大変な働き者で近所でも評判です。野良の忙しい時には、朝の早い農家の人達が起き出す頃、すでにひと仕事終えて汗をふきふき、朝飯に帰って来るという具合です。
    「ほら、峯吉さんが帰ってくる。おらたちも急ぐべえ」
    みんなは、峯吉さんを見習って仕事に精を出すのでした。毎日、峯吉さんは、若いのに信心深く気だてのやさしい、可愛い妻のおよしさんと二人で幸せでした。
    峯吉さんはまた中村川沿いに水車小屋を持ち、米をついたり粉をひいたりして働きました。
    ところがある日、小屋から火が出て、近くの水車二軒も全焼という痛ましい事件が起こりました。信心深い妻のおよしさんは、みな自分の不始末からと思い悩んだ末、わが家のお稲荷さんを一心に拝み、願をかけました。
    「お稲荷さま、どうか至らぬ私をお許しください。これからは私の力の限り、人々のために尽くしとうございます。お助けください」
    お堂にこもって、ひたすら祈るおよしさんの姿に、近所の人達はいたく心を打たれました。
    そのうちにおよしさんは、何か突拍子もないことを口走り始めました。人々は、およしさんの気が違っていたのではないかと思いましたが、それが実際によく当たるのです。なかには、からかい半分に無理難題を持ちかける人もありましたが、一生懸命お祈りして、それを解決してあげました。その噂がだんだん広がり、
    「およしさんには、お稲荷さんが乗り移ったんだ。何でもみてもらうとよく当たるぞ。困ることがあったら、善波稲荷へ行ってお願いしてみろ。何でも聞いてくれるよ」
    それが口から口へ伝わって、押しかける人は増えるばかりでした。
    毎日およしさんは、誓ったとおり、人々のために尽くして、忙しさに食べるひまもろくになく、それもいちいち丁寧に対応するわけですから、自らの寿命を縮めることになったのでしょうか。みなに惜しまれながら五十三歳で亡くなりました。
    峯吉さんは、およしさんをお稲荷さんのもとに置いてやろうと、お稲荷さんの前に祀(ほこら)を建て、「守り稲荷」として祀ってあげました。
    (川匂地区)

    「二宮昔ばなし」『広報にのみや』269号、昭和60年5月を参照1
    「二宮昔ばなし」『広報にのみや』269号、昭和60年5月を参照2

    「二宮昔ばなし」『広報にのみや』269号、昭和60年5月を参照

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