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あしあと

    別荘地としての二宮

    • [更新日:2022年10月31日]
    • ID:64

    保養別荘地としての二宮白砂、青松の景観が売り

    隣町の大磯海岸が明治18年(1885年)に軍医総監松本順氏の提唱で日本最初の海水浴場となったことはよく知られている。

    一方、白砂青松の景観が抜群の海浜を擁する二宮を、大磯にも勝る海浜保養地として太鼓判を押した医学者がいたことはあまり知られていない。蘭医系で松本順氏の盟友だった医学博士橋本綱常氏である。

    明治20年(1887年)、東海道線が開通し、大磯停車場ができ、帝都との頻繁な往来が可能となったことで、大磯に別荘を設ける貴顕人が次第に増え、その数は明治22年(1889年)に20、明治40年(1907年)には108にのぼったと『大磯誌』は記している。

    これに対し、二宮の停車場は大磯に遅れること15年、明治35年(1902年)に開場。

    かねてから二宮のリゾートとしての立地性に着目していた橋本綱常博士は、同じく蘭医畑の二宮在住伊達時氏とはかり、二宮の保養地・別荘地化による地域の活性化を画したことを明治42年(1909年)8月の横浜貿易新報は伝えている。

    ところが、この頃都心の肺結核専門病院が二宮・国府本郷(現大磯町)辺りの松林の中に一般別荘を装った転地療養所の設置を目論んでいることが発覚。地元住民の強い反対で立消えになったという事態が発生し、海浜保養所タウン二宮の実現は大きく遅れをとることになってしまった。

    それでも、程よいオゾン漂う樹齢百から二百年の黒松林とコントラスト鮮やかな白砂の海辺、柑橘馥郁と匂う丘陵に囲まれた温暖の地を慕って保養の地に選ぶ貴顕の士は停車場開設以降、徐々に増加していった。

    明治43年(1910年)11月17日付け横浜貿易新報は「吾妻村二宮は停車場開設に引き続き、秦野二宮間に馬車鉄道が施設され、諸種の営業者も続々と増え…郡中第一等の商業地と目されているのに加えて、軍人政治家の別荘も年々新築せられ…」と報じている。更に大正5年(1916年)8月の横浜貿易新報には「中郡吾妻村は以前は荒涼たる漁家や農家が数十軒あった。当時大磯は別荘がドンドン出来て、貴顕紳士の出入り多く、二宮の如きは紳士の歯にも合はぬ如く思はれていた。然るに近年軍人や実業家や外国人の別荘が出来商店も年々増加して遠からずして町制を施行するやに思はれる」とある。

    かくして、明治後期から大正、昭和中期にかけて、二宮町内に名士の別荘と呼ばれる邸宅数は51にのぼったと、平成6年(1994年)刊の『二宮町史』は記している。

    ちなみに、二宮に別荘を構えた貴顕の士の中から特筆に価する人を挙げてみよう。

    まず明治末期から大正中期に元町南地区原田に邸を構えたのが犬養毅氏。5・15事件で凶弾に倒れた第29代宰相だが、当時は国民党の総裁だった。極めて質素な別荘で隣人は犬養夫妻の清貧ぶりにびっくりしたと伝えられるが、二宮の人たちとの交流も積極的で、大正元年(1912年)に青年会の勉強会で講演を行ったとの記録も残っている。

    老舗デパート三越の創始者日比翁助氏は明治42年(1909年)梅沢川西側の海沿い4ヘクタールを避寒用の別荘地として求め、茅葺きの家を建てて住んだ。第2次大戦後は敷地を親族等に譲渡するなどしたが、末裔の人たちも昭和中期まで居住した。なお、林芙美子の小説『うず潮』に登場する相模保養所(元国立小児病院)は日比家の本邸を戦中に国が買収し、これを転用したものである。

    大正中期には第十五銀行の頭取だった男爵園田孝吉氏が中里地区栗谷に果樹園付きの広い邸を構えた。せめて別荘に籠っている間ぐらいは一切の煩事に関わりたくないと電話は敷かなかったという徹底ぶりだったとか。残念ながら関東大震災に遭遇し、他界したため、3ヘクタール近い跡地は国が買い取り、東大農学部農場として平成20年(2008年)まで存続した。

    二宮駅南口に近い上町地区海岸には敷地約5000平方メートルを有したタイプライター王(和文タイプ発明者)杉本京太氏の邸があった。画期的発明品で財を成した立志伝中の人だけに大きなローマ風の池を配したアカ抜けた洋館造りが印象的だった。昭和10年代に法人の玉盛心泉がこれを譲り受け、現在は児童福祉施設心泉学園となっている。昭和中期まで当時の面影をしのばせる建物が一部残っていたが、残念ながら今はない。

    その他、下町原田地区稲荷谷には、明治から大正にかけ財界の大物といわれた渋沢栄一氏の懐刀と評された実業家滝沢吉三郎氏が広大な別荘を構え、昭和の初頭からは二宮を永住の地と定めた。友・知人にも二宮への別荘設営を熱心に勧めたといわれ、氏の尽力で二宮に邸を持ち、町の発展に貢献した人も少なくない。滝沢氏は二宮の教育文化の進展にも寄与すること大で、滝沢賞という賞を設けて児童奨学のために多額の基金を小学校に提供したり、二宮金次郎像を二宮小学校玄関前に寄贈するなど、町への思いやりの強さが窺える。

    参考文献

    • 『二宮町郷土誌』昭和47年3月刊二宮町教育委員会編
    • 『二宮町史通史編』平成6年刊二宮町編集・発行
    • 『二宮町近代史話』昭和60年11月二宮町教育委員会編
    • 『にのみやゆかりの人物ガイドブック』平成22年11月刊二宮町図書館
    • 「広報にのみや122号」昭和48年2月版

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