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あしあと

    二見利節年表

    • [更新日:2022年10月31日]
    • ID:87
    二見利節年表(参考文献 平塚市美術館資料)
    西暦年号年齢年譜
    1911年明治44年
    10月29日 父二見喜三郎、母ナヲの次男として横浜に生まれる。本名は利次。本籍地は神奈川県中郡吾妻村(現在の中郡二宮町)山西565番地。
    1918年大正7年7歳父親が横浜市の尋常高等小学校の校長として赴任、家族と共に横浜に移り住む。
    1923年大正12年12歳11月 父親(42歳)が没する。二宮に戻り、吾妻尋常高等小学校(現在の二宮小学校)6年男組に編入する。
    1926年大正15年15歳吾妻尋常高等小学校高等科に進学する。東京日本橋の株式会社岡本弥兵衛商店に就職する。
    1927年昭和2年16歳東京の図案家の弟子として数ヶ月働く。銀座界隈での似顔絵描きや、看板描きの手伝いなどで生計を立てながら絵を描く。
    1928年昭和3年17歳銀座の〈千疋屋〉の集金の仕事を手伝う。これが縁で、後に恋人となる沢崎節子と知り合う。
    1929年昭和4年18歳似顔絵の批評をある画家に請い絵について諭される。郷里で画家に師事するよう勧められる。
    1931年昭和6年20歳昭和恐慌激化により、東京での生活を中止し二宮に戻る。
    1932年昭和7年21歳「相州美術協会」に参加する。井上三綱の弟子となる。
    恋人沢崎節子が病死し悲嘆にくれる。これ以後「節子(ときこ)」の一字をとり「利節(としとき)」と名乗るようになる。
    1933年昭和8年22歳2月 第1回東光会展に「小女秀作」を出品し、公募展への初入選を果たす。
    4月 第11回春陽会展に「温かい部屋」が初入選する。第20回展まで毎年出品する。
    1935年昭和10年24歳10月 第四回横浜美術協会展に入選する。
    1938年昭和13年27歳4月 第16回春陽会に出展「牡丹」入選。第16回春陽会賞を受賞する。
    10月 第2回新文展に「T子」で特選を果たす。
    12月 東京の杉並区和田本町にアトリエを借りる。
    1939年昭和14年28歳4月 第17回春陽会展に「三人の女」「うつぶせの女」「足を掛けた女」「鏡を持つ女」出展。「三人の女」が、秋田県の大地主でコレクターでもある平野政吉の買上げとなり、またこの縁で援助をうけるようになる。
    秋 渡辺隆蔵(日本興業銀行理事)が後援会を組織し、作品頒布会を開く。このとき『二見利節後援画集』をつくる。
    第三回新文展出品作「横たわる女」で、文展連続特選を果たす。
    11月 第8回横浜美術展の審査員を務める。
    1941年昭和16年30歳10月 第四回新文展に「塔」を無鑑査出品。
    12月 井上三綱の媒酌により赤井芳枝と結婚、二宮に新居を構える。
    1942年昭和17年31歳朝鮮に渡り、スケッチ旅行をする。
    11月 応召、甲府連隊に入隊する。
    1943年昭和18年32歳4月 長女矩子が誕生する。
    1944年昭和19年33歳沖縄の石垣島に従軍中、米軍の大爆撃を受け右耳を負傷し、以降、難聴を患うようになる。
    1946年昭和21年35歳12月 沖縄より帰還する。
    1947年昭和22年36歳二宮に戻り松浦伯爵の別荘(在釜野)を借りてしばらく生活する。
    9月 長男茂が誕生する。
    1948年昭和23年37歳原精一と共に、国画会会員になる。
    1949年昭和24年38歳国画会の梅原龍三郎と審査の方法をめぐって口論する。
    1955年昭和30年44歳7月 東京大丸で「二見利節素描展」開催。
    12月 大磯町立図書館で「二見利節素描展」開催。
    1956年昭和31年45歳3月 アトリエが全焼し、作品の大半を焼失する。
    1957年昭和32年46歳杉岡辰男とアトリエを再建する。
    1958年昭和33年47歳二宮町公民館の新築記念に作品「花」を寄贈する。
    この頃から、独自の画論「存在(ぞんざい)理論」を唱える。
    1959年昭和34年48歳妻芳枝と協議離婚。
    1964年昭和39年53歳モンドリアンの理論の研究と実践である作品、「規生」を制作する。
    1965年昭和40年54歳平塚美術協会(1951年発足)の展覧会にこの頃から毎年出品する。
    1966年昭和41年55歳日動画廊の援助により二階建のアトリエが造られる。
    1969年昭和44年58歳ヨーロッパ各地を巡る。
    1971年昭和46年60歳
    7月 平塚美術協会の相談役に古川恂、本荘赳と共に推薦される。
    1972年昭和47年61歳9月 日動画廊で個展を毎年開催するようになる。
    1973年昭和48年62歳8月 ギリシャ、トルコ、エジプトなどを巡る。
    11月 母親(88歳)が没する。
    1974年昭和49年63歳3月 小田原市立病院に入院、乳がんと診断される。
    12月 「玄武蘇上」を平塚市に寄贈した功績で、紺綬褒章を受ける。
    1976年昭和51年65歳3月27日 小田原市民病院で没する。享年65歳。
    10月 二宮町へ遺作26点を遺族が寄贈する。平塚市へ遺作354点を遺族が寄贈する。
    1977年昭和52年
    1月 二見利節展‐その人と芸術‐(平塚市美術館)開催。
    1996年平成8年
    1月 没後20年二見利節展‐内なるものへの眼差し‐(平塚市美術館)開催。

    参考文献 平塚市美術館資料

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