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あしあと

    二宮のこれから

    • [更新日:2025年10月10日]
    • ID:13
    町の移り変わり

    戦争が終わると町立二宮中学校の設立、自治体消防(消防団)の発足、二宮町国民健康保険直営診療所の開設と、急ピッチで新しい町づくりが始まりました。

    昭和30年代(1955~1965年)に入ると、豊かな自然が残る一方、都市部への通勤も可能なことから、宅地開発や住宅建設が進みました。
    特に町が大きく変貌を遂げるきっかけとなったのが昭和37年(1962年)に造成工事が始まった百合が丘団地です。入居が始まったのは昭和41年(1966年年で、その年は人口が急増、社会増加が自然増加の約10倍に達した画期的な年になりました。

    交通網の整備も進み、西湘バイパスは昭和36年(1961年)に建設が決定され、昭和43年(1968年)年に工事着工、昭和47年(1972年)に全線が開通しました。
    小田原厚木道路は昭和44年(1969年)に全線が開通、東名高速道路と結ばれ、車で東京へも行きやすくなりました。

    温暖で自然豊かな環境に加え、生活基盤の整備が進むと、二宮町は暮らしやすい町として人口が増加、平成の中頃(2000年代前半)には30000人を越えました。

    現在、日本の人口減少に伴い、令和6年(2024年)の町の人口は27000人ほどですが、吾妻山の一面に広がる早咲きの菜の花が注目され、多くの観光客でにぎわっています。


    入居が始まった頃の百合が丘団地の写真

    入居が始まった頃の百合が丘団地

    開通した西湘バイパスの写真

    開通した西湘バイパス

    菜の花ウォッチング

    吾妻山公園が開園して2年半あまり経った平成元年(1989年)11月に、当時公園の管理を任されていた方が何気なくまいた菜の花がぽつぽつと咲いたことを新聞が取り上げ、「日本一早い菜の花」と紹介されたのが「吾妻山の菜の花」のはじまりです。

    当時は少なかった株数も、まだ荒涼として危険な斜面地であった展望台下を開墾しながら徐々に増やしていき、平成17年(2005年)に「第1回菜の花まつり」が開催されました。吾妻山から見える雪景色の富士山と黄色の菜の花のコントラストは美しく、同年10月には、国土交通省の「関東の富士見百景」にも選ばれています。

    平成20年(2008年)には「菜の花ウオッチング」と名称を変更、以来年々にぎわいをみせており、吾妻山の菜の花は二宮町の知名度を上げるとともに、地域の活性化にもつながっています。

    吾妻山の菜の花1

    吾妻山の菜の花と富士山

    吾妻山の菜の花

    吾妻山の菜の花と海

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    二宮町教育委員会教育部生涯学習課生涯学習班

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    神奈川県中郡二宮町二宮1240-10

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