二宮のはじまり
- [更新日:2022年10月31日]
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湘南・二宮町は、大磯丘陵の中南部に位置し、南に相模灘、北には丹沢山塊に続く丘陵地と、海山の恵みを得た自然豊かな土地です。冬でも降雪量が少なく、比較的温暖な気候といえます。
二宮に人が住み始めたのは、一色遺跡で発掘された石器から、少なくとも約1万数千年前と考えられます。町内には遺跡が多く、全73ヶ所が昭和61年の調査で確認されました。このうち、特に縄文時代のものは丘陵や山にあり、東海道や葛川のあたりが当時海であった裏づけになっています。特に葛川に沿った入江は遠浅で、縄文時代に主要な食糧となっていた貝の採集に適していましたが、この地域は津波の被害を受けやすく、地震も多かったので、時には大きな被害を受けることもあったようです。
今から5,000から6,000年前は、氷河期にできた氷が一気に融け出し、海面が世界的に上昇しました。二宮も太平洋に面しているため、その影響を受け、今より内陸側に海岸線があったとされています。現在の二宮町中里・元町・下町・中町・上町・梅沢・越地・茶屋周辺の平らな低地は、かつて海底でした。このことは、これらの地域から海に生息する貝類や魚類の化石が数多く出土しているのでわかります。
海が退き、そこに丘陵から集落が展開してくると、町の指定文化財である弥生土器が製作されるようになり、やがて3から4世紀の古墳文化期になると、現在とほとんど同じ地形が出来上がり、人々はここに移り住みました。ほかの地域ではこのころ古墳が多く作られますが、二宮には全く見られず、丘陵の斜面に横穴を削って埋葬する横穴墓が盛んに造営されました。このことは逆に大きな特徴といえます。これらの横穴墓からは金銅製飾太刀が出土し、大和朝廷の工房との関連が指摘されています。古代、二宮を含む地域は師長国(しながのくに)と呼ばれており、大化の改新(645年)にあたって相模国に合併しました。相模湾沿いに通じた東海道の原形も『養老令』(757年)などの文献に見ることができるため、奈良時代や平安時代初期には成立していたことがわかります。
マユツクリガイ
イシカゲガイ
イタヤガイ
ハナガイ
川勾神社の由来
大和朝廷が二宮のあたりを師長(しなが)国とした時代には、第十一代垂仁天皇(在位…紀元前29から紀元後70年)の勅命が奉じられて川勾神社が創られたとされています。
その頃、川勾神社は師長の一の宮でした。しかしその後、相模国ができたときには、その地位を寒川神社に譲ったといわれています。川勾神社は「延喜式」(927年)にも記載されて、このあたりを開拓した級津彦命(しなつひこのみこと)を主神として、ほかに三神が祀られています。川勾神社は現在でも、町内外の人々から厚い信仰を受けて、多くの人々から親しまれています。
大正4年(1915年)5月には旧神領地の水田中から木槽(田舟)の半欠が出土し、二宮町の重要有形文化財に指定されました。古代の人々が水田農耕の際に使用していたとも、祭祀に使用したともいわれ、真相は不明です。今は川勾神社の宝物として大切に保管されています。
川勾神社
木槽(田舟)
吾妻神社の由来
吾妻山の展望台の下にある吾妻神社には、次のようないわれがあります。「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東の国々を治めに行く道中、船に乗って三浦半島の走水(はしりみず)から上総(今の千葉県西部)へ渡ろうとしました。
すると突如として暴風が起こって、船もろとも海中に沈むかと思われました。その頃の人々は、海が荒れるのは海の神の怒りと考えていました。海の神の怒りを鎮めるためには生贄(いけにえ)が必要となります。そこで妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は自ら犠牲となって海中に身を投じました。
すると今まで荒れていた海はたちまちに静まり、日本武尊は無事に航海を終えることができました。」ということです。
その後、弟橘媛命の笄(こうがい、かんざし)が海辺に流れ着いて、吾妻山山頂に埋められました。その場所が現在、吾妻神社であると伝えられています。また弟橘媛命にまつわる伝説は、吾妻山だけに伝わるものではありません。
二宮の地名にも弟橘媛命の袖が流れ着いたとされる袖ヶ浦、袖を埋めたとされる梅沢(埋め沢)などの由来があります。二宮町内だけではなく、相模湾沿岸を中心に点々と存在していることから、その伝承地は地域的な広がりをもつことがわかります。
吾妻神社
こゆるぎの里 にのみや
「こゆるぎ」はかつての淘綾(ゆるぎ)郡のことで、平安時代の辞書『倭名類従鈔』によると、相模国の地名として記されています。
「こゆるぎ」という言葉は奈良時代から和歌に詠まれ、一つの有名な地名でした。発見されているだけでも77歌集、127首に及びます。ここで少し実際に詠まれている例を挙げてみますと、「相模路(さがむじ)の淘綾(よろぎ)の浜の真砂(まさご)なす児(こ)らは愛(かな)しく思はるるかも」(作者未詳『万葉集』巻14東歌・読み下し文)この歌は、美しいことの例えとして和歌に詠まれています。
また「わかめかるはるやきぬらんこゆるぎのいそのあま人なみにまじれり」(源兼澄『兼澄集』1012年頃)とも詠まれています。海人が働いているのを見て、春が来たのかと推量し、「こゆるぎ」が磯の修辞句として使われています。和歌の世界では「こゆるぎ」は浜・磯など海に関係する言葉とともに使われる場合の多いことがわかります。
二宮周辺は海の恵みだけでなく、山の恵みも豊かな土地です。平安時代の貴族たちは実際におとずれたことがない土地を修辞句として使っていたので、海のイメージが強く持たれたものでしょう。
昭和35年頃の袖が浦海岸
昭和30年ブリ漁
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