二宮のいぶき
- [更新日:2022年10月31日]
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二宮のいぶき(鎌倉・室町時代)
戦国下剋上の時代、二宮の地は北条氏の勢力下にありましたが、鎌倉幕府が開かれた頃には、源頼朝の支配を受けました。そのため戦火の難を受けることがあり物資の供給先としても機能していました。東海道には足柄路と、箱根路の2つがあります。箱根路は平安時代初期の富士山の噴火で足柄路が一時封鎖してから開設されましたが、将軍家の箱根参詣のせいもあって、鎌倉時代に発達しました。二宮町の昔の小名の一つ「塩海(しほみ)」が応仁2(1468)年の『経覚私要鈔』や天保12(1841)年の『新編相模国風土記稿』に記され、「郡水(こうず)」と「平塚」の間にある東海道の中の地名として書かれているほか、梅沢を詠んだ太田道灌の和歌も文明12(1480)年の『平安紀行』に残されています。
二宮町にも鎌倉幕府に仕える武士が暮らしていたことの名残として「長峰やぐら」の存在があります。「やぐら」とは丘陵地の壁面に穴を掘り、刳り貫いた壁に沿って五輪塔を並べる中世鎌倉時代のお墓です。五輪塔の下には遺体が土葬されていたり、火葬骨が納められたりしています。
さらに、この場所は横穴古墳の密集しているところでもありますから、古代から先祖をお祀りする場所としての役割があったと思われます。また、やぐらの分布地域を見ると、平均して鎌倉周辺に円を描くように見られます。二宮町はその西限にあたることから、鎌倉幕府の影響を知る手がかりとして重要な遺跡ということができます。
北条政子の安産祈願
鎌倉時代の出来事を記した『吾妻鏡』によると、建久3年(1192年)に二宮川勾大明神(今の川勾神社)で北条政子の安産祈願が行われました。昔の人々にとって出産は「棺桶に片足を突っ込む」ともいわれ、母子ともに危険な状態をさまようこともしばしばでした。そこで源頼朝の妻、北条政子も無事に出産を終えることができるよう、神仏に力を借りることにしました。
『吾妻鏡』によると、まず鶴岡相模国神社(今の鶴岡八幡宮)に神馬二頭を奉りました。現在では神社にお願い事をするときには絵馬(板に絵で書かかれた馬)を納めますが、その当時は本物の馬も納めていました。記録には「神馬」とありますから、普通の馬ではなく神様に納めるための特別な馬だったのではないでしょうか。すぐには手に入らない貴重な馬を神様に納めたのです。
その他、相模国内の27箇所の寺社・仏閣で祈願が行われたとされます。二宮の川勾神社も27箇所の内の一つとして挙げられています。相模国内には数多くの寺社・仏閣がありますが、特にご利益があったことでしょう。
祈願の甲斐もあってか、元気な男の子が産まれ、政子も無事に出産を終えることが出来ました。その子は後の三代将軍実朝です。
曽我兄弟と二宮
曽我兄弟の話は『曽我物語』にもなり、現在でも有名な仇討ち物語ですが、その舞台のひとつが二宮であることはあまり知られていないのではないでしょうか。兄弟の姉である花月(かげつ)は当地の地頭である二宮太郎朝忠(あさただ・朝定ともいう)に嫁ぎました。朝忠の邸は現在の知足寺の場所にあったとされ、寺の境内には兄弟の供養塔が残っています。弟の五郎が出家をやめたために母から勘当された時、居候していたのがこの花月の家でした。彼女は兄弟の一日も早い仇討ちを願って、吾妻山に浅間神社を建立して毎朝祈願したと伝えられています。
また建久4年(1193年)の仇討ちの後、兄弟の母と花月、十郎の愛人だった遊女の虎御前の3人は五輪塔を建て、特に花月は自宅の隣に庵室をたてて兄弟の菩提を弔いました。この庵室を再建したのが知足寺といわれています。二宮にはこの他にも兄弟に関する伝説が多く、五郎が十郎のもとに駆けつける際に、吾妻山近くの家で馬を借りた上、生えていた大根を鞭にあてたという話や、花月の信心深さのため吾妻山にマムシが出なくなったという話が残されています。川勾神社前には兄弟が力比べをしたという力石が参拝者を迎えてくれます。
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