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あしあと

    ガラスのうさぎ

    • [更新日:2025年10月10日]
    • ID:58
    戦時下の二宮町

    太平洋戦争が終結して80年。
    戦争の爪痕を町中で探すことは難しく、戦 争体験を語ることができる方々も年々少なくなりました。
    しかし、二宮町には忘れてはならない戦時下の歴史があり、その象徴が「ガラ スのうさぎ像」です。
    緊張が続く世界情勢の今こそ、戦争の様子を語り継ぎ、平和への願いを次世 代へと伝えていきたいものです。

    1.  ガラスのうさぎ像

    • ガラスのうさぎ像とは
    • 平和都市宣言
    • ガラスのうさぎ像 平和と友情のつどい

    2. 戦時下の二宮町・・・昭和20年8月5日 (今に残る弾丸の痕)

    • 二宮駅
    • 打ち抜かれた楽譜
    • 池田國次郎邸

    ガラスのうさぎ像とは
    ガラスのうさぎとは

    二宮駅南口を降りるとまず目に入るのが、ガラスのうさぎを抱いた少女の像 です。
    この像は太平洋戦争中、二宮町に縁故疎開していた童話作家高木敏子氏の体 験記である『ガラスのうさぎ』をモチーフとして建てられたものです。
    『ガラスのうさぎ』には終戦間近、父親が二宮駅で米軍機の機銃掃射を受けて 死亡したために、ひとり取り残された少女と、少女に温かく接する町民の心情が 描かれており、1977 年に金の星社から出版されるとベストセラーとなりました。
    また、NHKでドラマ化され、映画も作られると、さらに多くの人々が知るところ となりました。
    ちょうどその頃、二宮駅南口広場の拡張工事が行われていたことから、町のシ ンボルとして、町民から浄財を募り作られたのがガラスのうさぎ像です。 ガラスのうさぎ像には「この地にあった戦争の悲劇を後世に伝え、末永く平和 の誓いを明らかにしたい」という町民の願いがあらわれています。

    ガラスのうさぎ像
     設 置 1981 年(昭和 56 年)
     製作者 圓鍔 勝三(えんつば かつぞう)氏【芸術院会員 昭和 55 年度神奈川文化賞受賞】 

    ガラスのうさぎ増1
    ガラスのうさぎ増2

    ガラスのうさぎ像の基礎には、寄付者名簿、趣意書、及び『ガラスの うさぎ』の単行本等が収められたカプセルが埋められています。
    また、ガラスのうさぎ像の横には次のような碑文が建てられています。

    碑文

    【碑文】

    太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日
    ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲となりました
    この時 目の前で父を失った十二歳の少女が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました
    この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを後世に伝えるために また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために多くのご協力をいただき建てたものです
    少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです 

     ここに平和と友情よ 永遠に 

    昭和五十六年八月五日 「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会 

    (注釈)碑文にある「艦載機P51」は、 後の研究で「戦闘機P51」であることがわかっています。

    平和都市宣言

    ガラスのうさぎ像に込められた平和への願いは、1982 年(昭和 57 年)に二宮町議会で決議された平和都市宣言にもあらわれています。

    【平和都市宣言に関する決議】
    現在の世界情勢は、各地で紛争がおき大戦争に発展する危険性をもち、又、超大国の「力の均衡論」による核戦争準備の強化によって人類滅亡か否かの瀬戸際に立たされている。
    世界唯一の被爆国であり、戦争を放棄した我が国として、全世界に向かって核兵器の廃絶をうったえるとともに、我が二宮町は「ガラスのうさぎ像」をシンボ ルとする平和を願う町民の意志を代表し、以下の方針を堅持する平和都市であることを、ここに厳粛に宣言する。

    1. 非核三原則の厳守を国に対して強く要望すると共に、二宮町内に核兵器をつくらせず、設置させず、持ちこませず。
    2. ガラスのうさぎ像の精神を忘れず、人類永遠の幸福の為に平和と言う理想に向かって努力する。

            昭和57年6月18日     二宮町議会

    ガラスのうさぎ像 平和と友情のつどい

    恒久平和への思いを後世に伝えるため、二宮町では1991年(平成3年)より「ガラスのうさぎ像 平和と友情のつどい」を毎年8 月に開催しています。
    つどいでは碑文が読み上げられるとともに、町内の小学生、中学生による合唱や演奏、映画の上映などが行われ、大勢の方が平和への想いをあらたにします。
    また、この時期、ガラスのうさぎ像のまわりには多くの千羽鶴が飾られ、平和への祈りがささげられています。

    ガラスのうさぎ3

    千羽鶴は多くの町民の手によるものです

    ガラスのうさぎ4

    二宮町生涯学習センターラディアンにて

    戦時下の二宮町 昭和20年8月5日(今に残る弾丸の痕)

    1945年(昭和20年)になると本土空襲が本格化し、二宮町も幾度か空襲に見舞われました。
    中でも同年8月5日、二宮駅とその周辺はアメリカ軍戦闘機P-51の機銃掃射を受け、5 名の方が亡くなりました。
    『ガラスのうさぎ』の著者である高木敏子氏の父親が亡くなったのもこの時です。
    ここでお伝えするのは、今に残る当時の激しい空襲の痕跡です。

    二宮駅

    二宮駅の改札口を通って大磯寄りの階段を下りると、一部屋根の形が違い、ホ ームの両側に柱が立っているところがあります。
    この柱には、「建物財産標 大正14年」のプレートがあり、この柱と梁は旧ホ ームのものであることがわかります。
    戦後80年経った今でも、この屋根の鋼鉄製・木製の梁には弾痕が確認できます。

    二宮駅1

    屋根が低く見えるところが旧ホームの屋根
    現在の橋上駅舎およびホームの屋根の延長は1982年(昭和57年)に完成しました

    建物財産標

    建物財産標

    鉄省上家4号
    大14年 月 日

    二宮駅3

    天井の梁に残った機銃掃射の痕(1)         

    二宮駅4

    天井の梁に残った機銃掃射の痕(2)

    二宮駅5

    天井の梁に残った機銃掃射の痕3

    撃ち抜かれた楽譜

    この楽譜は、二宮駅に隣接した駅長の官舎にあり、8月5日の機銃掃射による弾に打ち抜かれたものです。

    撃ち抜かれた楽譜1

     

    楽譜2

    楽譜は二宮町教育委員会所蔵

    その日の駅周辺へのすさまじい攻撃の様子は、この楽譜の持ち主であった高木恒子氏(当時の二宮駅長であった樫尾吾一氏の五女)の手記(『ひとしずく第三号』戦時下の二宮を記録する会会報誌2009年発行)に描かれているので、抜粋して紹介します。
    「・・・姉がかぶった座布団に、弾が当たり中の綿がはじけ出ていました。
    姉は一瞬のすきに逃げて九死に一生を得たのです。
    畳の表面に弾の走ったささくれ立った傷がたくさんあったり、破片が突きささっていたりしました。
    畳壱帖に三つくらいは弾の傷があり、本箱のガラスが割れ、我が家の宝物だったストップ が九つあるリードオルガンも三発の穴があき、その上にあった本立てのニ十冊位の楽譜や本にも突きささり、弾の先端が本の中に止まっていたものもありました。
    弾は指の先くらいなのに本の穴は直径三~四センチにもなるのです。
    弾が回転しながら飛んでくるため、ねじれて穴が大きくなってしまうのです。
    桑の木の長火鉢も鏡台も傷だらけでした。
    ・・・夜になって、何を食べたか何をしたか、よく覚えていません。
    ただ、電気のつかない家の中から空が見え、星がまたたいていたのが忘れられません。
    あとで我が家の貫通した穴の数を数えたのが百三十いくつだったと思います。・・・」

    池田國次郎邸の弾痕

    池田國次郎(2014 年没)邸は二宮駅にほど近く、二宮町を東西に横断する国道1号線に面して、1936年(昭和11年)に建てられた住宅です。
    木造二階建てで、1階の一部は上下に開閉する窓が据え付けられ、和洋折衷の建築様式が目を引きましたが、2015年(平成27年)11月に老朽化のために解体されました。
    この2階でも8月5日の空襲で、横浜から疎開をしていた方が1名亡くなっ ています。
    建物には、機銃掃射の攻撃を受けた際の弾痕が残っていたため、解体前に記録をとらせていただいたところ、多数の弾痕に加え、建物にめり込んだままの弾丸が発見されました。

    池田國次郎邸

    外観全景。
    1階には家業の肥料商の店舗、洋室、仏間など、2階は8畳間2部屋、広縁がありました。

    池田國次郎邸2

    2階東の8畳間。広縁側(海側)の壁には西から東へ斜めに5か所の弾の痕があり、弾は壁を突き抜けていました。

    池田國次郎邸3

     

    池田國次郎邸4

    2階北東側(国道1号線側)
    の梁にめり込んだ弾

    弾

    取り出された弾は約5cm

    当時の様子は二宮町内の菓子店友月堂経営者であった高橋長蔵氏が、その日記に「敵小型機P51十数機相模湾より侵入。
    八王子付近より旋回、南進中二宮上空に於て、折柄駅に待合中の多数買出隊其他の乗客多数待合中を目掛けて、機 銃の掃射を次々の編隊から発射。
    駅前各家にて被害をうけざるものなく殊に有 近歯科医と吉本本家より発火。
    幸いに大事に至らず消し止めたり。」と記したよ うに、二宮駅周辺では大きな被害を受けました。そしてそれから10日後、日本は終戦を迎えたのです。

    【参考】
    『二宮町議会史 記述編』 1985 年 二宮町議会
    『二宮町史 通史編』 1994 年 二宮町
    『ひとしずく第3号』 2009 年 戦時下の二宮を記録する会
    『消えゆく昭和の風景』 2016 年 池田國次郎邸合同調査会

    お問い合わせ

    二宮町教育委員会教育部生涯学習課生涯学習班

    住所: 〒259-0123
    神奈川県中郡二宮町二宮1240-10

    電話: 0463-72-6912

    ファクス: 0463-72-6914

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