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あしあと

    庚申塔

    • [更新日:2023年2月25日]
    • ID:57

    路傍や寺社境内に、ふと三猿を彫刻した石塔が見つかることがあります。これは庚申塔です。庚申塔は庚申講に参加する人々によって、死後の安楽を願って造立されました。ほとんどは造立当時の場所から移動していると考えられます。二宮町には年代が分かっているもので寛文7年(1667年)から文政5年(1822年)の、全部で23基の庚申塔があります。

    現在はほとんど見られなくなりましたが、二宮町でも昔は庚申講が盛んでした。平成9年発行の『二宮町民俗調査報告書』を見ると、一色の梅ノ木、中南、宮根、向根、中里の宮ノ窪、二宮の下町、妙見、川匂の入川匂などで行われていたことが書かれています。たいていの庚申講では60日に一度まわってくる庚申の日に、決めておいた家に集まり、掛軸をかけた前で念仏をし、そのあと徹夜で飲食、歓談して過ごしていました。この日に眠ってしまうと、体の中にいる三尸(さんし)という虫が、その人の悪行を天帝に告げるため、寿命が縮まると言われています。

    ここで紹介した庚申塔は、一定期間庚申講を開催してきた人々が少なからずいたことを示しており、二宮町のさまざまな民間信仰を示す貴重な資料です。
    描かれている像や、石塔の形式、銘文もそれぞれ異なっています。たとえば造立年代をみてみると、寛文年間(西暦1661~1672年)が5基、享保年間(西暦1716~35年)が7基と、集中的に建てられています。元禄年間(1688~1703年)は15年間あり、寛文より長い期間ですが、1つしか建てられていません。

    寛文など初期の庚申塔を細かく見てゆくと、文字と三猿を組み合わせ笠付であるなど凝った石塔が多く見られ、時代が下るにつれて青面金剛像のみ彫刻したものや、文字碑が増え、石塔も簡素になってきます。
    庚申塔にはこのように時代ごとの変化が見られ、当時の信仰の詳細を知る手がかりになっています。

    路傍の石仏参観にあたってのご注意

    • 本ページに載せた路傍の石仏の参観にあたっては、あらかじめ石仏の場所を確認してからお出かけください。
    • 石仏が私有地内にある場合は、無断で入らないでください。
    • 石仏を傷つけたり、移動させたりする行為は絶対にやめてください。
    • 道路にごみをちらかしたり、他人に迷惑をかけたりしないでください。
    • 石仏は地域の人々の手で大切に守られてきたものです。節度ある態度で見学しましょう。