平台遺跡
- [更新日:2022年11月7日]
- ID:134
このページでは平台(ひらだい)遺跡についてご紹介します。平台遺跡は二宮町山西にあり、大磯地塊の南端、第三紀層の粘土岩を基盤とした平台と呼ばれる台地上に立地しています。ここに旧大東京火災海上保険会社の社屋が建設されることになり、その工事に先立って発掘調査が行われることになりました。調査は昭和45年3月~5月に行われ、その報告書は『神奈川県二宮町平台遺跡とその出土遺物』(日野一郎・杉山博久編 1972 平台遺跡調査会)としてまとめられています。
平台遺跡は縄文文化時代の遺跡で、縄文文化中期前葉から縄文文化後期中葉(5000年から4000年前)にかけての時期の土器片・石器類と、弥生文化後期の土器片が出土しました。その他、炉の跡と推定される焼土が存在したことと、採集されている遺物の質・量からみて、そこを集落址としてほぼ誤りはないだろうと思われます。
縄文式土器の「縄文」は土器に付けられた縄状の模様の意味です。平台遺跡ではさまざまな模様の付いた土器が数多く出土しています。縄文式土器の模様は、細かな装飾が特徴で、粘土が乾燥する前に貝殻や竹の管をこすり付けてつけられています。よく見ると芸術的なものや信仰的なものなど興味深く感じられます。土器は縄文時代の人々の暮らしや思いを知る上で貴重な資料です。次のページでは平台遺跡から出土した土器の一部を写真でご紹介します。
資料ナンバー1
竹の管などのへら状工具で沈線を施したシンプルな模様。底部が赤褐色に煤けていることから、火にかけたと思われます。
資料ナンバー2
口縁部には比較的浅い彫方で二本の波線がひかれ、胴部全体に細かい縄目が見られます。底部に向かってすぼまる形は、まるでチューリップの花のようにも見えます。完全に復元されていないので分かりませんが、とがり底ではないかと思われます。
資料ナンバー3
浮き出た線を中心にして、その周りに連続の爪形模様があります。さらに内側には小さな杉の葉状の模様があり、中心に三角形の模様があります。縄文人の繊細な造形が見て取れます。
資料ナンバー4
この土器は一部復元されています。模様は003の土器とほとんど変わりありませんが、口縁部にはくるっと丸まった把手があります。左の把手には斜めの線が付けられ、いっそう華やかに見えます。
資料ナンバー5
模様は資料ナンバー3と似ていますが、こちらは上下に大きく揺れる波線が特徴的です。模様は3つの層に分かれていて、一番上の層は輪のようです。2層目は2本の波線が対称的な動きをしており、3層目には円形の模様も付けられています。内側には模様が見られませんでした。
外側
内側
資料ナンバー6
口縁部には環状の把手が付けられています。その下はまったく模様の見られない部分があります。器の胴部に立体的な模様が集中していると思われ、幾何学的なモチーフは、古代人の精神生活を物語っているようにも見えます。
資料ナンバー7
土器の形は植木鉢型で、胴部全体に模様が見られます。口縁部には円形の把手も見られます。隆起線はくねくねと蛇のような形をしていますが、規則的な形のようにも見えます。他の破片が見つかって全体の模様がわかれば、模様の正体がつかめるかもしれません。
資料ナンバー8
他の土器とは質が異なり、赤茶色の土で作られています。土器にはキラキラと金色のかけら(雲母)が含まれています。立体的な細かい波目模様が規則的に並んでいます。
資料ナンバー9
土器の口縁部、胴部、底部の破片です。左下の土器片は底部と思われますが、葉っぱの葉脈がくっきりとわかります。
資料ナンバー10
何も飾り気のない土器で、高さは15センチほどしかありません。とがり底のため、非常に不安定です。写真では不明瞭ですが、土器の内外に朱色が付着しています。
平台遺跡
所在地
山西字平台
遺跡種別
集落址
時代
縄文~弥生
概要
1970年、保険会社社屋建設に伴う発掘調査、縄文時代中~後期と考えられる焼土跡、配石遺構を検出。
土師器・石器などが出土。
文献
- 日野一郎・杉山博久他 1972 平台遺跡調査会『神奈川県二宮町平台遺跡とその出土遺物』
お問い合わせ
二宮町教育委員会教育部生涯学習課生涯学習班
住所: 〒259-0123
神奈川県中郡二宮町二宮1240-10
電話: 0463-72-6912
ファクス: 0463-72-6914