ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

あしあと

    一色遺跡

    • [更新日:2022年11月7日]
    • ID:141

    一色遺跡は、県立二宮高校建設に伴い昭和53年3月から5月にかけて、神奈川県文化財保護課により発掘調査が行われました。
    同遺跡は西側は葛川、東側はその支流である打越川に挟まれた丘陵部の末端に位置しており、標高は丘陵平坦部で海抜65m、谷の部分で海抜45~35m。丘陵平坦部からは西側に富士山、南側には相模湾が展望できます。遺構・遺物は主に丘陵平坦部から検出され、その時代は旧石器時代から平安時代にまでわたっています。
    二宮町で旧石器時代の遺物が発見されているのは、現在のところこの一色遺跡のみです。
    ここでは調査結果報告書をもとに、遺物・遺構を中心にご紹介します。

    旧石器時代

    旧石器時代の遺物としては石核(せっかく)が1点のみ出土しました。石核とは石器を作る時、原石を打ち割って剥片を剥離した後の芯の部分をいいます。これは両端から石刃を剥離しており、石材は細粒凝灰岩と思われますが、箱根の安山岩の可能性もあります。

    石刃(せきじん)

    側縁が鋭利な刃部をなす。刃器として用いられる。

    縄文時代

    石皿(いしざら)1点、磨石(すりいし)30点、敲石(たたきいし)3点、礫器(れっき)8点、石斧(せきふ)5点、加工痕のある剥片6点、および礫の一端を打ち欠いた剥片が多く出土しました。これらの石器ないし素材は縄文土器の破片数よりはるかに多く見つかっています。それぞれの細かい時期は不明ですが、礫器や剥片などは縄文時代早期の可能性があります。主な石材は、凝灰岩、閃緑岩、安山岩、輝緑岩、玄武岩などです。

    磨石(すりいし)

    石皿とセットで木の実や根茎類などを粉砕したり、すりつぶすのに用いた。

    敲石(たたきいし)

    石鎚(いしづち)ともいわれる。石器製作用の工具や、クルミなどの堅い木の実の調理用具として、たたく、すりつぶすなどの作業に使われた。

    石皿(いしざら)

    長径30~40センチメートルの楕円形または長方形に近い扁平な石の中央を浅くくぼませた石器。磨石や敲石とセットで木の実や根茎類などの食料をすりつぶすのに使用した。

    石斧(せきふ)

    石製の斧で、打製と磨製のものがある。打製石器は土掘具として、磨製石器は木材の伐採や加工用の工具として用いられた。

    土器片の時期は早期、前期、中期、後期、晩期にわたっていますが、その量はあまり多くありません。表面をこすって痕(あと)をつけた上から、尖ったもので細くシャープな線をひいたもの、口縁を厚くし、その上に太い粘土紐をはりつけて装飾を施したものなどがみられます。

    弥生時代

    壷形土器、甕形土器の破片がごくわずか出土されました。時期は弥生時代後期と思われます。

    古墳時代

    古墳時代前期と思われる竪穴住居址が4軒、古墳時代後期の可能性のある竪穴住居址が1軒発見されました。いずれからも遺物はあまり出土しませんでしたが、土師器の甕、壷の底部、坏、高坏などがある他、関西方面からの搬入品と思われるたたき目を有する甕形土器の大形破片が出土しています。

    たたき目

    土器の内外両面を叩いて整形する際の圧痕のこと。

    第1号竪穴住居址

    西側の傾斜地から住居址の一部が発見された。かまどの位置から一辺が5.5メートルを測る大形の住居址であったと推測される。
    遺物は長銅甕の破片が出土したが、時期の特定には至らなかった。

    第4号竪穴住居址

    平坦部の東南側から発見。住居址は炉と柱穴と思われるピットが検出されただけであった。
    遺物は五領期(古墳前期)と思われる甕形土器一括が出土した。

    ピット

    柱を立てるためなどに掘った穴のこと

    第7号竪穴住居址

    住居址は南北に長い隅丸長方形を呈するものと思われ、長径4.85メートル、短形3.18メートルを測る。
    遺物は非常に少ないが、関西方面からの搬入品と思われるたたき目を有する甕形土器の大形破片、台付甕の脚台部が出土した。このことから住居址の時期は五領期(古墳前期)と考えられる。

    第8号竪穴住居址

    住居址の形は方形で、一辺が約4.9メートルである。炭化材が検出したことから焼失住居の可能性がある。
    遺物は少なく、土師器の甕、壷の底部、坏、高坏などが出土した。住居の時期は出土した古式土師器から五領期(古墳前期)と考えられる。

    第9号竪穴住居址

    8号住居址と複合して発見されたが、8号住居址より古い、方形の住居址である。
    遺物は非常に少なく、甕、広口壷、高坏などが出土。住居址の時期はこれら古式土師器から五領期(古墳前期)と考えられる。

    平安時代

    南側平坦部からは4軒の住居址が発見されました。編年の軸となる須恵器はまったく出土していないものの、土師器の甕形土器を中心として年代を推察すると、壁が深く、床、かまどなどもよく残っていて保存状態良好の2軒が9世紀代、あとの2軒はそれぞれ10世紀代と10世紀代後半から11世紀代前半と考えられます。

    また同じ南側平坦部からは、耕作によって壁がほとんど削られており、床も部分的に残っているのみで、時期の決め手になるような遺物が出なかった住居址が一軒見つかりました。そのためはっきりしたことは言えませんが、住居址の平面形や覆土の状態からみて、これも平安期のものである可能性がうかがえます。

    遺物のほとんどは土師器の甕でしたが、他に土師器の坏が数個、灰釉陶器の坏、ふいごの羽口などが出土しました。また、特殊な遺物としては第2号竪穴住居址から匏形容器(ひょうたん形の容器)が出土していますが、これは土製模造祭器の一種であると考えられます。

    第2号竪穴住居址

    住居址はほぼ方形を呈し、面積はおよそ11.3平方メートルである。かまどは北壁側の中央よりやや西寄りに設置されており、遺物は大部分がかまど内およびその周辺から発見された。土器は土師器に限られ、それもほとんどが甕で、坏は小破片が数点出土したのみであった。住居址は9世紀のものと考えられる。

    第3号竪穴住居址

    住居址は北壁が長く、南壁が短い不正長方形で、かまどは東南隅に設置されている。面積はおよそ2.7平方メートルと非常に小形で、この住居址と同一時期と思われる住居址が発見されていないので推定の域はでないが、厨房専用の施設であったかもしれないと想像される。10世紀代の住居址と考えられる。

    第5号竪穴住居址

    壁辺長は東側・西側がそれぞれ約2.6メートル、南側・北側がそれぞれ約3.3メートルの整った平面形で、かまどは北壁側の西寄りに設置されている。床は平坦で良好なもので、柱穴は検出されていない。住居址の時期は出土した土師器の坏形土器と壷形土器から9世紀代のものと考えられる。

    第6号竪穴住居址

    床は耕作によって削られ部分的に残っているだけで、柱穴、周溝等も検出されていない。遺物は土師器の破片が出土しただけで、時期の決め手になるものはなかったが、古墳時代の住居址である7号住を切っているのでそれ以降であることはまちがいない。

    第10号竪穴住居址

    壁、床等はすでに削られており、確認できたのは住居の掘り方の残存部とかまどの残存部である。これから推測して一辺が3メートル強の方形を呈するものであったと思われる。住居址の時期は出土した灰釉陶器、ろくろ整形の施された土師器の坏などから、10世紀後半から11世紀前半と考えられる。

    灰釉陶器

    自然灰をかけて焼くことで、釉薬の効果をもたせた陶器のこと

    その他

    擂鉢の胴部破片がいくつか見つかりました。そのうち内外面に鉄色の釉薬が施されているものは16世紀末から17世紀にかけて美濃で製作されたものと思われます。

    一色遺跡

    所在地

    一色字雑畑

    遺跡種別

    集落址

    時代

    旧石器~奈良・平安

    概要

    1978年、県立高校建設に伴う発掘調査、古墳時代前期、平安時代の集落跡を検出。
    土師器・石器などが出土。

    文献

    • 鈴木保彦 1980「一色遺跡」神奈川県教育委員会『神奈川県埋蔵文化財調査報告』20

    お問い合わせ

    二宮町教育委員会教育部生涯学習課生涯学習班

    住所: 〒259-0123
    神奈川県中郡二宮町二宮1240-10

    電話: 0463-72-6912

    ファクス: 0463-72-6914

    お問い合わせフォーム