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あしあと

    彼岸と地神講(ひがんとじしんこう)

    • [更新日:2022年11月7日]
    • ID:55

    彼岸

    彼岸とは、春分の日と秋分の日をそれぞれ中日として前後各3日を合わせた7日間をいいます。春や秋の彼岸にはお墓参りに行き、ボタモチやオハギを食べる習慣は今でもありますが、昔は「入りボタモチに明け団子、中の中日小豆飯」といって、どこの家庭でも彼岸の入りの日にボタモチ、中日には小豆飯(赤飯)を作り、明けの日には団子を作って仏に供えました。

    また春の彼岸は、井戸替えと呼ばれる井戸の手入れを行う時期でもあり、井戸の地下水をくみ出し、地下水の溜まり水の底にある小さい玉砂利を取り替えたそうです。

    地神講

    彼岸に最も近い戊(つちのえ)の日は社日(しゃにち)と呼ばれ、その日には地神講(じしんこう)という集まりが行われました。地神講とは豊作を祈って土地のカミを祀る集まりで、小字(こあざ)単位で行われることが多く、二宮町内のどの地域にも地神塔が見られることから、昔は地神講が盛んに行われていたことがわかります。【地神講と地神塔については、バーチャル郷土館「二宮の文化」の中の「路傍の石仏」に詳しい記述があります】

    講を行う場所(ヤド)は順番またはクジで決められ、講員は掛け金と、決められた量の白米を納めました。一色地区に残る地神講の帳簿には、昭和の初め頃の掛け金が50銭、白米が5合であったという記録があります。

    ヤドになった家では床の間に地神の掛軸を掛け、食事を出しました。ヤドで出す料理はそれぞれの地神講で決まった献立があり、ある地神講では白米の飯、豆腐のみそ汁、焼き豆腐の煮付け一丁、コンニャクの刺身、コウコ(漬物)、煮豆を足付き膳で出したということですし、また別の地神講では、赤飯、煮しめ、煮魚、ヌタなどを出したということでした。講の当日は山や畑の仕事はせず、集まりが終わると掛軸を箱に入れ、次のヤドに回しました。

    地神講は、春には作物の生育を祈り、秋には収穫を感謝する場であるとともに、親睦や農業振興、農業技術の改善・普及の場でもありました。しかし時代の移り変わりとともに、昭和30年(1955年)頃から活動を中止するところがみられるようになり、多くは昭和の終わり頃までには解散し、現在も活動を継続している地神講はないようです。

    参考

    『二宮町民俗調査報告書』二宮町教育委員会編 平成9年発行